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山手でのひととき

主幹研究員 加藤竹彦

 横浜を代表する人気スポット「港の見える丘公園」の南東、霧笛橋を渡ったところに神奈川近代文学館は位置する。希少資料を含む百数万点の文学関連書物を保管する瀟洒な建物である。

 今回、ここに足を運んだのは、以前から好きだった久生十蘭の特別展示が開催されているからだった。十蘭が活躍した時代は1930年代後半から50年代であり、いくぶん古いためにご存知ない方も多いだろう。作品、作風は多岐にわたっており、「地底獣国」「海豹島」などの美文調、怪奇風なもの、「魔都」「ノンシャラン道中記」「キャラコさん」などの諧謔洒脱なもの、「顎十郎捕物」のような時代小説や推理小説まで何でもこなす職人肌の作家である。1952年に「鈴木主水」で直木賞を受賞している。フランスに留学し、翻訳作品も多い。歯切れのよい文体が味わい深い。今回の特別展では、数少ない残存原稿や留学時代のはがき等が展示されていた。神奈川近代文学館には、神奈川にゆかりが深い作家や、神奈川各地の風光を取り入れた作品の原稿等も常設展示されている。

 神奈川に暮らした作家は数多い。なかでも鎌倉は「一時居住者」を含めると80名を超え、「鎌倉文士」でくくれるほどである。その中には芥川龍之介、川端康成、志賀直哉といった文豪の名が混じる。また、茅ケ崎の開高健、逗子の石原慎太郎、横浜の大仏次郎などもよく知られるところであるし、ほかにも数々の作家がいる。

 同館を尋ねたのが平日の午後で寒空だったこともあり、時間をかけてじっくりと鑑賞する間、結局ひとりの来館者もなかった。静謐の中で往時の作家たちの息遣いに触れ、タイムスリップしたような錯覚に見舞われた。併設する喫茶店では、主の話に耳を傾けた。平日はだいたい客もなく静かだという。高齢の入館者ばかりで、リピーターが多いそうである。さもありなん、今の若者にとっては明治、大正、昭和初期の文学は鑑賞の対象ではなく、情報でしかなかろう。真冬の港の見える丘公園は、デートスポットの選択肢にもなりにくいかもしれない。『儲けようなどとは思ってもいません。残りの少ない人生を、ここで穏やかに過ごせることが夢のようです。』霧笛橋や芸亭(うんてい)の桜などを望める窓の遠くに目をやりながら主は朗らかに語った。

 同館には島田雅彦、柳美里など現役作家のコーナーもあり、継承者を生むべく新たな歴史を刻んでいく努力もしている。この施設の維持には県や市の予算がそれなりにかけられていることを思うと、もう少し活用をはかってもよさそうな気がする。

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