国権の最高機関と品格 2010年11月7日

少し前に、元横綱朝青龍の「品格」が随分と問題になった。私は日本の国技としての大相撲の横綱としては、朝青龍の行動は問題ある部分が多かったと感じている。単に勝敗のみを競う競技としての「SUMOU」(オリンピック種目などになって)であれば、品格などを話題にする必要はないのであろう。
ここで問題になっているのは、日本の文化・伝統を重視するかしないかであり、良い悪い
を論じているのでないということである。宗教はそれぞれの地域や民族で異なる。だからといって自分はイスラム教徒ではないから、モスクへ行って信者が祈りをささげている場で騒いで良いはずがない。もちろん、信者でなければ同じように祈るべきではないが、敬虔な気持ちになって頭を垂れるのが、品格ある人の行動であろう。それがその国や民族、宗教を信じる人たちへの敬意であり、ひいては異文化に対する尊重を表現していると言える。
一方、日本の国権の最高機関である国会はどうなっているのだろうか。衆議院と参議院とのねじれや政権交代後1年持たずに首相が交替し、なかなか民主党政権の金看板であった政治主導の政権運営ができないでいる。こういった課題は容易く短時間で解決できるとは考えにくいが、是非国会議員の知恵と良識で克服してもらいたいと思っている。しかし今回筆者が取り上げたいのは、現今の政治情勢ではなく国会の品格についてである。国会は言論による論争を行う必要から、当然辛辣な物言いや非難などはあるだろう。しかし、ヤジはどうなのだろうか。現代で、人が発言している最中にそれを妨害する発言(いわゆるヤジ)をするような場を、筆者は「堅気」が集まる場では寡聞にして知らない。一昔前のいわゆる総会屋が跋扈していた頃の株主総会は、賛成反対入り乱れてヤジが多かったと聞いている。しかし、今の株主総会はほとんどヤジがなく、粛々と議事を進めている。
しかるに、国会は未だにである。これはどう理解すべきなのだろうか。国会は、「堅気の人」が集まる場ではないとしか考えられない。通常の学校に学び、通常の社会生活をおくっていて、あのようなヤジを自然に言えるようになるとは思えない。異常な世界である。では、この「異常さ」が良い論争なり良い結論を導き出すことに役に立っているのだろうか?
そうではないだろう。では、何故ヤジるのか??
もうひとつの仮説としては、日本人は生来品格なるものは持ち合わせていないのではないかと思わざるを得ない。日本の国民が代表者として選んだ人(それなりに立派な人のはず)の行動なので、その行動が異常と映るのであれば、異常を通常と看做すことができるのではなかろうか。
こういった人たちを日本国の代議員として選んでいる国民(筆者も含め)は、朝青龍の品格のなさを非難することができるのだろうか。
出来るのだ。我々がみんなで国会におけるヤジを非難する声を挙げることによって。