岡田監督ご免なさい 2010年11月31日

今年のスポーツ界の出来事を総括すると、何と言ってもサッカーワールドカップでの日本代表チームの活躍を挙げることができる。日本代表はワールドカップにおいて、自国開催以外で初めて勝利を上げ、しかも予選リーグを突破して決勝トーナメント進出という快挙を成し遂げたことは、一人の日本人として大変うれしく、自分が達成したような錯覚さえ覚えるほど興奮した出来事だった。
そこまで興奮した理由の1つは、事前の期待が低かったことがあるのだろう。得点が取れない、決定力不足等は、日本サッカーには以前から言われていたことであるが、直前の強化試合で負け続け、しかも試合内容も良くなかったため、どうせ予選リーグで敗退する、1勝すれば儲けものくらいにしか評価していなかったからである。本当に事前の予想を良い意味で裏切ってくれた活躍と言える。
そういった日本国内の大きなうねりの中、当時twitter等で「岡田監督ごめんなさい」という書き込みが多数寄せられていたと聞く。また、一流新聞と呼ばれる記事にも同様な国民の声を掲載しているものがあった。何故、ごめんなさいと岡田監督に謝るのか?私には不思議である。私はサッカーの専門家ではないが、日本代表がワールドカップ直前の強化試合で結果が出ない、しかも内容も良いと言えない状況下で、責任者たる監督が批判されることは当然だろうと考えている。そして、状態が悪いチームを本番までに建て直し、結果を出した監督が褒められ、感謝されるのも至極当たり前のことである。故に、私は岡田監督がどん底から這い上がらせたリーダーとして素晴らしい、立派だとは思うが、結果の出なかった時に「駄目じゃないの」と思ったことに対して謝るつもりはない。その理由は、駄目じゃないかという対象が監督業の手腕に対してであり、岡田さん個人、人間そのものを批判したわけではないからだ。手腕そのものは試合しか見ていない人間にはそれでしか判断できないので、強化試合の結果が悪かった時に、岡田さんの監督手腕を批判したこと自体は間違っていないと思っている。間違っていないのだから、謝る必要はないというのが筆者の考え方である。
しかるに、「岡田監督ごめんなさい」と言っている人たちは何故謝るのか?私の論法から言えば、発言者が間違いを認めたからであろう。判断材料が結果しかない中で一定の評価をしたことがその後、違っていたから謝るというのはあまりにも安易すぎる。謝れば許されるという優しい社会の反映なのだろうか。それとも、岡田監督の人間性まで批判したという自覚があるからなのだろうか。いずれにせよ、安易に謝ることは真に謝るべき事象を隠してしまう恐れがあり、論理的思考より情緒的感情が優ってしまうということになりかねない。
ここは、「岡田監督ごめんなさい」という思考の矢印を自分に向けるのでなく、「岡田監督お見事でした!」と相手への賞賛の言葉で締めくくりたいと思っている。