技術開発・私の夢と想い出「偶然と必然の織り成す中で」
(1977年8月24日執筆したものです)

私が理学部物理学科を卒業した年は、昭和23年戦後の混乱の最も甚だしい時であった。
戦後も3年の月日が流れていたとはいえ、1億の人々が口を糊するに汲々としていた時代であった。加うるに私自身にとってはその3年は人生においてその行路を左右した忘れ得ぬ年月であった。物理学科入学の際にはプランク教授の後を追い、理論物理学への途を目差さんとしていた若き学徒にとってその途がいかに険しく困難であるかを身をもって感得せざるを得なかった苦しくもまた悲しい期間でもあった。
自己能力の限界をいやという程知らされ、実験物理の途へと方向転換を余儀なくさされていた私は、日本電気に職を奉ずるに当たっては「材料研究の成果こそが世界一流の技術を生み出す基本である」(材料を制するものは技術を制す)と入社試験の際、堂々と言いきれる青年と成り変っていたのである。しかし、幸にも入社が許され研究所に配属が決った私に与えられた仕事は、材料研究のテーマではなくして新型電話機(のちに4号電話機と名ずけられたもの)の受話器の研究開発のテーマであった。戦争により痛めつけられた通信の復興を目差す通信省電気通信研究所(当時)が中心となり、日本電気を中心とする電話機メーカーが協力して、同研究所の早坂博士の指導の下に我が国の技術力を結集して新型の電話機の開発が進められていたのである。
材料研究への志向と、電気音響の研究開発を担当することとの間には、直接何の関わり合いはない。しかし、当時の世相は希望と現実のギャップにこだわり、その希望を貫くことを新入社員に許すほど甘くはなかった。かくの如くして、一時は理論物理学の途を目差し、次いでは材料研究の方向を指向せんとしていた若者にとって、いわゆる「音響屋」と名ずけられる研究開発者としてその社会生活の一歩を印すことになったのである。
電気音響の研究開発は、それはそれなりに興味があった。特に電気音響交換理論、音響機械等価回路手法を用いて設計した各種音響機器が、開発試作、ついて量産試作の段階を経て製品化され世の中に送り出されるのを見るにつけ、メーカーにおける研究開発者としての冥利を味うことができたのも懐しい想い出である。
ついて私を待ち受けていた運命は、ソーナ(SONAR)システムの開発テーマであった。これはある意味では必然性をもったものと言えよう。空中音響(可聴音波) 分野から、水中音響(超音波)分野への移行である。私に与えられたテーマは、ソーナ用超音波振動子の設計であった。しかし、卆直にいって、超音波振動子の設計は空中音響機器の設計ほど魅力のあるものではなかった。
基本的に磁歪素子なり圧電素子なりのブロックの寸法、形状を変えることにより設計が完了する仕事は余り興味のあるものではなかった。私は振動子の設計の仕事を果たしつつ、温度差修正装置という海中の温度勾配による音線の屈折のために生ずる、目標距離の誤差の修正の計算機をアナログ計算技術を利用して試作することに成功した。入社後10年、ここに到って私は「音響屋」の看板を少しく拡げ、システム研究開発指向を経験することになったのである。
システム研究開発の分野に足を印した私は、まさに偶然と必然の織り出す人生行路そのままに、研究テーマの中を広げていくことになった。
「君は物理屋だから、この程度の確率過程のモデル化はできるであらう」という上司の一言によって、私にとっては全く未知の分野であった「オペレーションズ・リサーチ(OR)」の途に首を突込むこととなり、その仕事をベースにして後ほど工学博士号を戴くことになった。また「情報理論を勉強していた様だから」ということで、パルス符号変調(PCM)のプロジェクトを与えられ、その結果が後述するCOMSATにおけるPCM衛星通信プロジェクトの樹立へと結びついてゆくのである。
研究管理者生活を含め、社会人として約20年有余の間「研究」と名のつく分野にあった私のとって、最も忘れがたい意義深き想い出は、昭和40年8月から昭和42年8月までの2年間、ワシントンDCにあるCOMSATでの研究部長としてのそれであらう。
小林副社長(当時)の先見の明により、衛星通信の将来性に注目してその研究開発を開始した日本電気内部では、当然のことながら中央研究所はその役割の一端を担うこととなり、通信基礎研究室長代理であった私もプロジェクトリーダーの役目を仰せつかっていた。時たまたまCOMSATは、その事業の性格が国際的であるとのいうこともあり、世界各国から限られた人数の技術者を採用するという計画を持ち、KDD(国際電信電話株式会社)にその推薦を依頼してきた。かような状況のなかで私のCOMSATへの出向が決定した。
Department Head of Modulation Techniqueとして私を迎え入れるという決定を聞かされた時の私の不安感は今でもハッキリと覚えている。
外遊経験がそれまでにも2度あったとはいえ、Department Headとしてアメリカ人を使うというようなことはそれまで考えもしなかったことである。
言葉の問題もある。Modulation Techniqueといっても私はPCM屋でしかない。AMやFMの技術でアメリカ技術者を指導することなど夢想もしなかったことである。
結果からすれば、私の不安は杞憂にしかすぎなかった。アメリカのマネージメントは、人間の能力に最も適した仕事を与えることにより、最大の効果を期待するものであることをCOMSATでの経験は私に教えてくれた。私のPCM屋としての経験と能力を買って採用したことを知るのには、そう長い時間は不要であった。
今でも憶えている。水を得た魚のように私はPCM衛星通信のプロジェクトを次々と作り推進していった。その一つが現在世界の約30の衛星通信局で実用されているSPADEシステムであり、他の一つが1980年代に実用システムとして重きを成すと考えられていたTDMAシステムである。ちなみに、SPADEという名をつけた時、私はトランプゲームでオール・マイティの力をもつスペードのエースを頭に画いたことをつい昨日のように憶えている。
COMSATにおいて、COMSAT Laboratories が発足しCommunicotion Processing Lab. の Lab. Mamager として約30名の部下をもつに至った私は、それなりにアメリカにおける研究管理の本質を勉強することができた。私の経験によれば、アメリカ人も人の子であるということである。上司に媚びることもあるし、批判することもる、否むしろ、上司、同僚を批判する点からいえば、日本人よりも激しいかも知れない。しかし、同じ人の子といっても、日・米研究者の差はその移動性の容易さである。日・米の差は、良否は別として、基本的にはここにあると信ずる。最後に我慢できなくなった時、彼等は上司・同僚いわんや会社のことを考えることなく去って行く。優秀な人物を引きとどめ得ない組織は衰退するし、反対に秀でた人材が参集する部門は益々その成果を発揮し得るのである。かかる関係の中から、いわゆる適材適所が実現を見るということになる。(いささか短期的評価の傾向があるという欠点はあるが)
ともあれ、CMSAT Lab. での2年間の研究管理者としての経験は紙面にあらわせぬ程のものがあり、私にとって正に開眼のチャンスを与えてくれた。
「チャンスとは強いられて与えられるものでなく、不安な心をおさえて奪い取るものである」という感を強くしている。
研究管理者の立場を離れ、事業運営の場に身を置く者として研究開発の夢をと尋ねられるならば、私は通信屋のOBとして次のことを第一線の研究者および研究管理者に望みたい。
何時でも、何処とでも、誰とでも即座に顔を見合って話し合い、書類を交換し合えて、経済的に成り立つ通信システムの実現である。そのためには、音声情報、記録情報、画像情報の情報分析を通しての帯域圧縮技術の一層の向上と、LST、超LSI等の技術向上による経済的部品の実現と経済的通信方式の研究等々為すべきことは多く存ずる。更には、人間を含む生物生態の解明を通じて、その結果をエレクトロニクスの世界で実現する、いわゆるバイオニクスの研究もまた重要なものであらう。それと共にもう一つの課題は、いわゆる“第六感の世界”の解明ではなからうか。主として電磁波(光を含む)エネルギー、音響振動エネルギーだけに依存している現代の通信工学で、第3のエネルギーの発見により大きく飛躍しうるや否や、これは正に21世紀への課題である。
以上