ページの先頭です。
サイト内の現在位置を表示しています。
  1. Home
  2. コラム
  3. 旧雨今雨
  4. 正真正銘、元祖美少女アイドル
ここから本文です。

正真正銘、元祖美少女アイドル

主幹研究員 加藤竹彦

 ベル・エポック華やかなりし1896年にパリの週刊誌イリュストラシオンが、「美の女王」を選ぶコンテストを開催した。コンテストには大女優サラ・ベルナール、人気絶頂のオペラ歌手ネリー・メルバ(デザートのピーチ・メルバは彼女のために創作された)、ダンサーでラ・ベル(美女の意)の愛称を持つカトリーヌ・オテロなど当代きっての有名人のほか、パリ・ブルジョワジーが作り出した擬似社交界(デゥミ・モンド)で活躍した超美形の高級娼婦(クルティザンヌ)などを含む131人がエントリーされていた。投票の結果、7000票のうち3076票を獲得し、堂々「美の女王」に輝いたのはオペラ座の若きバレリーナ、21歳のクレオ・ド・メロードだった。

 本名はクレオパトラ・ディアーヌ・ド・メロード。その美貌は決して名前負けしていない。ネットで「クレオ・ド・メロード」と検索してみるがよい。フランス語版のウィキペディアでは彼女こそ「美のアイコン」と称している。

 当然ながら、当時の絵画界・彫刻界・写真界の名だたる著名人達が彼女に作品のモデルを依頼した。写真家フェリックス・ナダールやルートランジェが撮影した写真は絵葉書となり、現在でもアンティークポートレートとして高値で取引されている。絵画界ではドガ、ロートレック、クリムト、ジャン・ルイ・フォラン、ジョバンニ・ボルディーニなどによる作品が残されている。彫刻家アレクサンドル・ファルギエールによる裸体像には「顔だけのモデルをつとめた」と彼女は主張した。

 91歳の長寿をまっとうした彼女の、晩年の写真も含めすべてに気品がある。真ん中分けする彼女の髪型はパリジェンヌの間で大流行。耳を見せた写真がほとんどなかったため、奇形ではないかというあらぬ噂までが立った(耳がでている写真もちゃんとある)。オペラ座のバレリーナとしてデビューし、その後フォーリー・ベルジェール座のダンサーとなったが、踊りよりもモデルとして歴史に名をとどめた。

 19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までのおよそ100年間、パリが繁栄した時代に、多くの王侯貴族・大富豪が高級娼婦たちに並大抵でない財産を蕩尽し、やがて破産し、没落していった。「自殺のセイレーン(ギリシャ神話の海の精で、美しい歌声で水夫達を惑わし死に至らしめる)」の仇名を持つコーラ・パールは贅沢を享受し尽くしたクルティザンヌの一人だ。ある男がコーラにマロングラッセ一箱をプレゼントしたところ、そのマロングラッセの包み紙がすべて1,000フラン紙幣だった。またアイルランドの大地主ジェイムズ・ウェルプリーが貢いだ全財産200万フランをわずか8週間で浪費してしまった。

 華麗な逸話は他にも枚挙にいとまがない。ベルギー国王レオポルド2世の寵愛を受け、ココ・シャネルの服飾を世に広めたエミリエンヌ・ダランソン、グルジアの王子と結婚してプリンセスにまでなったリアーヌ・ド・プージィ、振られたあげくに自殺を図った男が6人、恋を巡って決闘した男が2人いるカトリーヌ・オテロ。彼女たちはパリの三大美神と謳われた。敵であるプロイセンに身を売ったラ・パイヴァ、ヴィクトル・ユゴーを振ってその息子と付き合ったアリス・オジー、椿姫のモデルとなったマリー・デュプレシス、“最高に高くつく女”ことレオニード・ルブラン、女優ナナのモデルとなったブランシュ・ダンティニー、カフェ「トルトニ」を有名にしたエルテル・ギモンなどなど、美の競演が繰り広げられていた。

 その中にあって、数々の美のエピソードを持ちながらも終生、身持ちが堅かったクレオこそ、美のアイドルの走りといえよう。

このページの先頭に戻る