「電子協の歩み−新たな飛躍に向けて−」
Tインダストリーレポート 3月号
JEITA 総合政策委員会 委員長
日本電気(株) 専任顧問
国際社会経済研究所 社長 仙田 勤

あまり定かではないが、電子協と私との直接的関わり合いは多分昭和45,46年頃からではないかと思う。入社7、8年目で、アポロ11号が月面着陸に成功し、わが国初の衛星「おおすみ」の打ち上げ成功、よど号事件、ドルショック、円の変動相場制への移行、日中国交回復といった時代だった。電子協の「電子計算機業務委員会」という、今で言えば「政策企画委員会」の機能だったと思うが、そこに上司に連れられて陪席したのが始まりだったような気がする。それ以前は、むしろ通産省担当課に毎日のように通っては、"業界のおじゃま虫"ぶりを発揮していたように思う。
電子計算機の、貿易と資本の自由化圧力に国産メーカがどう対処していくのかが当時の最大の課題だった。当時の国産電子計算機メーカ(NEC、沖、東芝、富士通、日立、三菱の6社)はようやくIBM360シリーズに対抗したシリーズマシンを世に出したばかりで、その年間生産額はようやく3,000億円から4,000億円の規模になっており、稼働状況で言えば、国産機のシェアが、外国機をようやく上回った時代だった。しかし基幹産業においては、大半が輸入機で占められているという状況。各社ともコンピュータ事業の急進展の一方で、膨大な開発投資に重くのしかかられ、赤字続きのうえにレンタル資金の調達も大きな課題だった。それに追い打ちをかけるように、IBMの「370シリーズ」の発表(昭和45年)とコンピュータ産業の輸入・資本の自由化スケジュールの決定(昭和46年)がなされた激動の時代であった。
"国産コンピュータ・メーカ1社集約説"が、政・官の閻で議論されたのもこの頃である。6社が束になっても足元にも及ばない巨人IBMがいて、しかも狭い日本市場で6社がひしめき合っていては共倒れのおそれあり。1国1社でも競争は阻害されない。競争相手は国内同志ではなくIBMだ。というのが"1社集約論者"の説。これに対し6社経営幹部は、国内マーケットだけに目を向けての議論は狭小。技術立国たる日本のマーケットは全世界。世界市場を見回せば6社という数字は決して多くはないとの主張だった。膨大な研究開発投資、レンタル資金、巨人IBMの存在という三重苦のなかでのこうした発言はすごいと思った。しかしその裏では、各銀行トップのところへ日参してもいたそうである。カネは無かったけれど、わが業界は高邁な志と進取の精神に満ちあふれていた時代だったと思う。この頃、「電子計算機周辺装置の集中生産」の制度が採用されたが、これはうまくいかなかった。この制度は、例えばラインプリンタならA社、磁気テープ装置ならB社というように各社がそれぞれ得意とする分野を集中生産し、それらを互いに供給し合うというもので、生産の合理化を計り、コスト引き下げをねらったものである。
米国からの自由化圧力の波がますます強まるなかで、1971年(昭和46年)、政府はIBM370対抗機種の開発補助金を出すことを約束した上で、自由化スケジュールを決定した。すなわち、1974年の電子計算機にかかわる技術導入の自由化ならびにICの完全自由化、1975年の電子計算機産業の資本・貿易自由化、1976年のソフトウェア産業の資本自由化等々の実施だった。
これを受けて産業界では1971年、6社は3グループにまとまり、すなわちNEC一東芝、日立一富士通、三菱一沖が、それぞれIBM370シリーズの性能を凌駕することを目的とした「新シリーズ電子計算機開発」を5カ年計画で開始した。各グループはまた、各種税制上の恩典を受けるため、「鉱工業技術研究組合法」に基づく技術研究組合を緒成し開発に当たった。以降、新シリーズ開発の事務局は、各グループの研究組合が受け持つことになるが、こうしたさまざまな政府の政策や民間の意見の調整役はいつも電子協だった。吉岡忠専務理事の政官民との根回しのうまさは有名だった。政・官・民が明日のリーデイング・インダストリーを目指してビジョンを共有し、自力開発に向かって突き進んだ時代だった。これからのち、産業規模の拡大に伴い、情報化やコンピュータに関する財団、社団、協会等が雨後の竹の子のごとく設立されて行くが、そのほとんどの場合に電子協が産婆役を果たすことになる。産婆役というより、電子協の委員会や事務局の機能が拡大して独立していったと見る方が、妥当かもしれない。
「超LSI技術研究組合」('76年)、
「協同システム開発(株):JSD」('76)、
「海外情報化協力センター(のちの(財)国際情報化協カセンター:CICC)」('76)、
「電子計算機基本技術研究組合」('79)、
「(財)光産業技術振興協会」('80)、
「(財)新世代コンピュータ技術開発機構:ICOT」('82)、
「(財)国際情報化協力センター:CICC」('83)、
「(財)データベース振興センター」('84)、
「(財)ニューメデイア開発協会」('84)、
「(財)情報処理相互運用技術協会INTAP」('85)、
「VCCI情報処理装置電波障害自主規制協議会」('85)、
「(特)基盤技術研究促進センター」('85)、
「(財)コンピュータ教育開発センター」('86)、
「(財)ソフトウェア情報センター:SOFTEC」('86)、
「(財)パーソナル情報環境協会(フレンド21)」('88)、
「(社)トロン協会」('88)、
「技術研究組合RWCP新情報処理開発機構」('92)、
「CALS技術研究組合:NCALS」('95)、
「電子・情報・通信関連産業団体連絡協議会=情団連」('97)等々の設立・設置。
落ちがあるかもしれないが、思い出すままにこうやって列挙してみると、その数の多さと電子計算機業務委員会ならびにその委員として、私がこうした団体の設立に関わってきたということに、今更ながら驚きを禁じ得ない。
1978年は、コンピュータの輸出入が初めて逆転した年だったが、その4年前、業務委員会の下部機構として「輸出小委員会」が発足し、東南アジア・コンピュータ調査団を派遣し、市場の可能性を探っていた。また、米国IBMはすでにアジア各国に進出を果たし、中国への強烈なアブローチを開始していた頃でもあった。1976年、電子協の中に、後に「(財)CICC」となる前述の「海外情報化協力センター」が設置され、本格的に途上国の現状調査や先進国の進出状況の調査を開始した。現CICC理事の河野さんがセンター長だった。そして1978年には、アジア途上国の情報化協力の拠点はシンガポールが最適との結論から、同国に海外駐在員を置き本格的な調査活動に乗り出した。駐在員第1号はのちに通産省技術審議官となる岡部武尚さん。岡部駐在員の時に('79年)、通産大臣が主催し電子協が事務局となって「電子計算機海外貿易会議(正式には「海外商品別貿易会議(電子計算機)」が同地で開催された。東京からは業務委員会の上部組織であり、各社の副社長、専務等で構成される「電子計算機部会」のメンバーが、シンガポールに集まり、現地メンバーでは各社の出先機関の幹部とアジア地域のジェトロ・メンバーが出席した。通産大臣の代理として、現JEITA専務理事の田中達雄電子機器課長が出席され、我々業務委員会のメンバーも参加した。さらに、岡部駐在員の精力的な活動により、シンガポール政府との間に「日本−シンガポールソフトウェア訓練センター(JSIST)」設の話が実現し、シンガポールにおいて日本のコンピュータと日本のソフト専門家によるソフトウェア研修が開始された。わが業界の途上国協力第1号として特筆されるべき事項である。
以降、電子協の途上国情報化協力としてのソフト訓練センター開設は、タイ、マレーシア、スリランカ、ヨルダン、アルゼンチン、中国、ベトナムヘと拡大して行くことになる。もちろん地道な活動として各国へのコンサルタントの派遣、要人の招聘、パソコンの貸与、現地セミナーの開催、コンピュータ技術者の研修受け入れ等々の業務も拡大拡充してきて、電子協のこの機能は1983年に「(財)CICC」として独立することになる。CICCの設立にも業務委員会メンバーが頑張った。通産省側の交渉相手は中島一郎さんで、業界側は主として佐藤篁太郎さん(日立)、桶谷喜三郎さん(富士通)、仙田等々だった。言ってみれば"一騎当千"組で、技術立国でしか生きられないわが国、わが産業は"輸出してなんぼ"であれば、その仕掛けをすべき機関が必須との思いだったのである。
「電子計算機貿易会議」はもともとは輸出振興を目的として、通産大臣が主催し、議長は主として電子計算機部会(いわゆるポリシーボード)の長が大臣から委嘱を受けてその任に当たる。日本の現状報告と、当該国の現状、情勢分析のための会議で、関係する国内の企業と現地日系企業、現地ジェトロ、大使館等が集まるが、資料作りを別にすればまことに楽しい出張の機会だった。第1回会議場所のサンパウロから始まって、ウイーン、シドニー、シンガポール、カラカス、再びウイーン、マドリッド、イスタンブール、メキシコシティ、上海、ブエノスアイレス、等々のほとんどに参加できたことは、私自身にとって大変な財産となり、無上の喜びとするところである。
もう1つ、CALSの思い出がある。1991年頃、わが国コンピュータ産業がテイクオフを果たし、処理スピードにおいては米国機を抜き去り、コンピュータ事業単独でも利益を謳歌しており、米国の製造業は目本との競争に敗れ、リストラを実行し、体力の回復に取り組むといった状況だった。そのころは業務委員会の名称が「政策企画委員会」に変わっていて、私が委員長を引き受けていたと思うが、ある日、字宙開発事業団・参事の水田さんと富士総合研究所の平林さんに大変ショッキングな話を聞いた。要するに、米国では製造業をはじめとする全産業が社内外を問わずネットワークにつながり、開発作業における企画・開発・製造・販売・保守等の一連の過程が顧客も含め、ネットワーク上でリアルタイムに処理できるため、開発時間の短縮や品質の保証、コストダウン等が飛躍的に向上している、との話である。そもそもCALSは、国防省が兵器開発のプロジェクトにおいて採用した技術で、つまりアメリ々恐るべし、というわけである。
技術的には全く不案内な私だが、そのマインドは理解できた。しかし、業種横断的な研究開発はわが業界だけでは手に負えず、通産省(電子政策課・電子機器課)に相談すると同時に電子協の古沢部長を説得し、協会の中に「CALS運営委員会」を設置、その下に情報技術ワーキング・グループと供給側ワーキング・グループ、調査ワーキング・グループ等を組織し、防衛、自動車、重電、電工業等各界からメンバーを募り研究を開始してもらった('92年)。通産省との折衝は、石黒憲彦氏が情報政策企画室長になったときから急速に進みはじめ、1995年から3年間、20億円の国家予算として実現し、併せてCALS技術研究組合(NCALS)が設立の運びとなった。その後「Eコマース」という表現が彷彿としてわき上がってきたが、こうしたEビジネスの基幹概念がCALSの一部なのである。このNCALSはのちに「ECOM」として引き継がれていく。わが国ではいわゆるB to B、B to Cともまだ幼稚な段階だが、CALSで培われた技術は、いずれ必ず花開くものと私は信じている。
電子協時代の思い出としてもう1つ触れておきたいことがある。日中情報化協力プロジェクトのことである。実体的にはCICCが事務局となって現在も進行中のプロジェクトであるが、そもそもは電子協の企画政策委員会が誕生させたプロジェクトである。
1995年10月、上海で開催された前述の電子計算機貿易会議終了後の、懇親パーティの挨拶の中で、中国電子工業部の曲副部長から「日本は商売が下手。欧米は官民一体で中国と交渉する。米国大使館はセールスマンでいっぱい。日本はメーカは頑張っているが、官はこれをバックアップしていない。日本のプレゼンスは、残念ながら低い。官民一体となった交渉が必要」との発言があった。日本側出席メンバーは、かねがね思い悩んでいたことを中国政府要人にずばり突かれたという感じで、帰国後、企画政策委員会と通産省との交渉の結果、日中定期協議の発足をみたわけである。メンバーは官民の幹部により構成され、1年後の1996年に第1回を開催し、1997年に第2回を開催。これと併行して政策企画委員会と通産省電子機器課による「中国問題検討委員会」を設置した。通産省側メンバーは加藤洋一企画官だった。
そして、97年8月に、レポート「中国市場に対する官民一体の新たな取り組みフレームワークについて」をとりまとめた。この委員会には電子協メンバーばかりではなく広く家電、通信業界側からも出席を得て広く会議を興し、結論として、「官民一体によるパイロット的実証実験プロジェクト」を提案。本レポートではまた、欧米企業が実質的にタイドローンを実施している実体を踏まえ、わが国もアンタイドローンを見直し、つまり実質的にタイドローンの実施を検討すべきことを提案している。その意図するところは、将来、中国市場においてわが国の協力が尊敬され、わが国業界が外国に比し優位に立ちたいとの思いが込められている。12月には官民拠出による総額約30億円の中国情報化協力プロジェクトを立ち上げた。このプロジェクトのメンバーは、緒果的にはNEC、沖、東芝、富士通、目立、三菱、の6社となり、中国側パートナーは国家発展計画委員会ならびに各省政府である。そして昨年(2000年)11月に、中間成果発表会までこぎ着けたのである。今後はこのモデル・プロジェクトを広く中国全土に普及させて行くことになる。さらに進めば、日中共同で周辺のアジア諸国にアプライしていくことも考えられる。当初、双方に疑心暗鬼の点もなきにしもあらずで、ギクシャクしたところもあったが、いまはスムーズに進んでいる。
思い出は尽きず、まだまだ物品税課税反対運動や情報産業振興議員連盟との関係やIIIC国際会議のこと、さらに電子協40周年(1998年)記念で西室会長から功労者表彰を受けたこと等々、書きたいことが山ほどあるが、約束の原稿枚数をとうに超えてしまった。わがままを承知で、最後に電子協と電子機械工業会の統合にいたる話をさせていただきたい。デジタル技術とモバイル技術の進展により製品の機能の融合が進み、コンピュータも通信も家電も事務機械もそれを所管する工業会の垣根が、どんどん低くなってきている。特に家電とパソコンなどは"テレビパソコン"か"パソコンテレビか"といった具合で、どちらの工業会に所属することになるのかという議論が出てくる。ところが、工業会は従来通りの製品別に分かれ、日本のエレクトロニクス・メー力はなべて総合メーカであるため、大部分の会社は、その製品ごとにそれを所管する工業会にそれぞれ加盟している。例えば、コンピュータは電子協、ワープロは事務機械工業会、家電・半導体・無線通信機器は電子機械工業会、有線通信機器は通信機械工業会といった具合である。ワーブロとパソコンは、大まかに言えば機能はほとんど変わらないが、パソコンは電子協、ワープロは事務機械工業会とその所管が分かれており、1O年くらい前にワープロも電子協に統一してほしい旨を事務局に申し入れたことがあるが、通産省の所管課が違うこともあり実現には至らなかった。
それとは別に、ITベンダ系の団体には共通する委員会がいくつもある。例えば、環境委員会、総務委員会、国際委員会、法務委員会、などはそれぞれ各団体に存在する。環境委員会で言えば極端な場合、各社の1人の担当者が各団体の環境委員会全部に出席しなければならず、本当に無駄なことである。そこで1997年にこうした共通した委員会は1つに絞り、各団体の委員会は廃止しようとの結論に達し、6団体で構成する「電子・情報・通信産業関連団体連絡協議会」を発足させたが、各団体の委員会は解散することなく、逆に各団体の上部にもうひとつ委員会が増えてしまう結果となった。
こうした各団体のダブりから生ずる非効率さとは別に、私自身は、かねがね電子協を含めたエレクトロニクス関連団体の政官財全体における発言力が、他産業に比し相対的に低いことを痛感していた。エレクトロニクス産業の生産高はいまや28兆円を超えてわが国最大の産業規模となり、今後とも日本を支えていくリーデイング・インダストリーであるにもかかわらずである。業界の当事者が自らの業界の重要性を強調することは、ややもすればエゴと受け取られかねないが、信ずることを広く各界に理解してもらう努力は必要だと思う。そのためには、もっと関連する団体がひとつに大きくまとまり、プレゼンスを高める必要がある。
宮澤内閣当時だったと思うが、景気浮揚対策として「総合経済対策」が打ち出された。ご承知のように、これまでわが国の不況時における経済対策は、常に公共投資・公共事業に対する建設国債の発行により行われてきた。しかし、もう土木建築等に重点を置く従来型の社会資本整備は飽和状態に近く、景気浮揚策としては、その効果を疑間視する意見が各方面から出されていた。電子協政策企画委員会ではいち早く、21世紀の社会を担う戦略産業分野、すなわち情報通信分野に重点投資すべきことを提言し、学校へのパソコンの普及や次世代のインターネット網(NGI構想)の整備等を提案した。しかし、現在の社会資本整備のための建設国債ではコンピュータや情報通信機器のような設備・機器は対象にならない。"60年償還ルール"になじまないからである。我々は情報通信や医療、福祉等の分野こそ次世代に向かって整備されるべき社会資本であることを訴えた。「新社会資本整備」論が一時話題になったが、大きく採り上げられることなく今に至っており、公共投資の配分比率は十年一日の如く固定したままであることは誠に残念の極みである。実態以上にわが業界と電子協の存在感のなさを感ぜざるを得なかった。
第23代目の電子協会長に東芝の西室社長が就任され、同時に電子機械工業会の会長には同じく東芝の佐藤会長が就任された。両団体の会長職を同じ時期に同じ会社が担当することは極めてまれな現象で、私はこの機会を除いては関運団体の統合はあり得ないと確信していた。佐藤、西室両会長の補佐役として登場した東芝の網倉氏とも意気投合し、私的に、極秘裏に8社8人の同志を募り勉強会を開始した。両会長には網倉氏が非公式に了解を取った。1997年春のことである。メンバー間の意見の対立はほとんどなかった。"8人委員会"の一応の方向が出たところで、これも非公式に通産省電子機器課長、ならびに両団体の専務理事に話をした。正式に理事会で検討開始の指示が出されたのは2年後の99年のことになる。「JEIDA/EIAJ統合準備委員会」が設置され、私がその委員長におされ、副委員長を日立の井上さんと富士通の野副さんにお願いした。家電、情報、通信はいまや一体にして不可分の時代に入っている。当初通信機械工業会も統合の視野に入っていたが、いろいろな事情からかなりの時間がかかりそうなので、まずは電子協と電子機械工業会の統合ということに落ち着いた。
2000年11月、「(社)電子情報技術産業協会(JEITA)」が、ついに誕生した。会員数580社、会員の総生産額20兆円、事務局職員数145名、という大団体となり、今年4月には事務所も駿河台に統合される。つい最近、経団連と日経連の統合の話が具体化してきた。我々の行動が刺激になったかどうかはわからないが、個人的には、まさに"感無量"である。
1990年代に入り、米国の産業の復権と日本の産業の衰退が目立つ。構造改革議論、産業競争力強化論とそのための情報化投資論が盛々だが、最後にお叱りを覚悟で申し上げたいことがある。国を挙げてのIT投資の勧めが説かれている中で、肝心のわが国の供給者側たるIT産業そのものの競争力は大丈夫かという点である。「ユーザ産業」が強くなれば、IT産業そのものも強くなるのか、と言えばそんな保証はない。依然としてサービス、コンテンツ、ソフトは外国技術に頼る傾向にあり、最近は"世界一"だったハードまで自主開発の手を抜いて外国技術に頼る状況にあるような気がしている。
引き続きわが業界が明日の豊かな日本を担うリーデイング・インダストリーたることを願うのならば、こういう状況の中にあってわが業界が何をなすべきなのか。現在国を挙げて取り組んでいるIT化政策の中で、わがIT業界がそれを達成するための十分な技術・製品の用意はできているのだろうか。国際的競争の中で何が強く、どこが弱いのか、の謙虚にして冷静な分析と自主技術開発力の強化に、もっと真剣に取り組む必要があるのではあるのではないだろうか。わが業界の果たすべき役割と、その上で政・官に期待すべき役割は何なのかを明確にし、説得していく必要がある。政・官・民バラバラの議論ではなしに、三者が共有できるビジョンと技術戦略を含めた総合戦略の確立ならびにその実行こそが極めて重要である。そしてこれこそが新団体の最大の役割だと信じている。
形はできあがった。魂もある。あとは「発言するIT協会」、「行動するIT協会」、「わが国をリードするIT協会」を期待するのみである。